一つ目はサンデル教授、他1000人の学生がとにかく誰も口にしなかった「誰に裁かれたいか」をさらりと書いた武田泰淳はとんでもなく思慮深い人間なのではないか。私は武田泰淳の小説は「ひかりごけ」文庫版1冊しか持っていないし、その他の小説は知らない。一体、何者なのだと。
答えは文庫版の解説にあった。
「武田泰淳は1912年(明治45年)2月12日、東京市本郷区(現在の文京区)駒込東片町の潮泉寺で生まれた。潮泉寺は浄土宗の寺であった。…(中略)…昭和7年2月に泰淳と改名して、芝の増上寺の加行道場に入り、僧侶の資格を取った…」
つまりお坊さんなのであるが、これを知ると成程と納得できる。さらに解説によれば、武田泰淳には死に対する根源的体験としての「戦争」が重ねられたとある。
お坊さんは昔から知識階級である。その知識階級にある人間が、「戦争」体験を重ねるとこのようなことも考えつくものなのだろう。
ついでに、「誰に裁かれたいか」は感覚的には随分と東洋的な発想だなと思う。とても漠然した感覚だが、白熱教室での議論は西洋的だと感じる。
二つ目はテーマ自体の魅力である。私は血を見るのが好きでもなければ、快楽殺人者でもサイコパスでも何でもない。
だが、このテーマには妙に引き付けられる。こんな文章を書いてしまうぐらいだ。ホラー映画を見る感覚なのか、それとも根源的な死というテーマ自体に私を引き付ける魅力があるのだろうか。
幸いなことに私だけではなく、他の人も事情は似ているらしい。数名にこのテーマを話すと、妙な顔はされたが結構真剣になって話し始める。そんな気味の悪い話を振らないでくれと言った人は今のところいない。
三つ目はこのブログを作る目的である。このブログを書いている目的は、情報の開示のつもりだった。
薄々気が付いていたが、本心はそうではない。
サブタイトルに「国家公務員Ⅱ種採用者の給料明細を画像で公開します。多寡はご自身で判断を。想像よりも…?受験生必見?」と書いている。
わざわざ、「多寡はご自身で判断を」と書いて、高い低いの感想を投票できるようにしている。
私は判断をして欲しかったのだ。
誰に?それはおそらく、世間一般の人に。国家公務員の給料の実際を知った世間の人に。言い換えれば、何も知らない状態で判断をして欲しくない。
果たしてこれは一片の偽りない本心だろうか。このブログを読み、1年目は給料がこれこれ、2年目は…、人事異動で転居がこれこれ、費用はこれこれ、実際の宿舎はこれこれとブログの上で知識を得た人間から、「給料が高すぎる」と言われたら、私は完全に平常を保ったままで「貴重なご意見ありがとうございます」と言えるだろうか。
おそらくいずれもノーである。きっと
「実際に体験してもいない人に言われても」
と心の底では大なり小なり腹を立てているに違いない。結局のところ、程度の差は甚だしいが、ひかりごけの船長と同じなのである。
「検事殿は、自分の肉を他人に食べられたことが御ありですか。」
法廷で船長は、食べられたことはないと返事が来るのをわかりつつ検事に尋ね、
「あなたに裁かれても裁かれたとは思えないと申し上げているんです。」
と言っている。
きっと私も「五助か八蔵か西川に」裁かれたいのである(※この3人は食べられた人である)。
結局、国家公務員の給料の多寡について意見を言われて、意見として受け入れることができる他者としては、国家公務員しかいない。
ならば、このブログを継続する意味は?少々更新が滞りがちなのは、こういった理由があるのだなと私自身は納得している。
- 2018/12/17(月) 21:51:16|
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